1960年代、デンマークのバンク=ミケルセンによってノーマライゼーションという概念が提唱されました。
このノーマライゼーションというのは、「健常者と障害者はお互いが区別することなく、社会生活を共にすることこそが正常である」というものです。
障害者が保護の名目のもと、地域社会から隔離されてきた背景もあります。彼らが、一人の人間としての人権を遵守され、地域社会の中で生きていく権利があるというのは、至極まっとうな意見だと思います。
この概念は、福祉に関わる人間であれば基礎知識のようなものではありますが、僕は大学でこの言葉を聞いた時から何とも言えない拒絶感がありました。
それを明確に「あ、違うわ」と感じたのは社会に出てからです。
僕の職場には以前、過度に緊張すると過呼吸を起こす同僚がいました。
なので、もし「過呼吸を起こしたら、少し現場を抜けさせて欲しい」と訴えがあり、僕個人としては「まあ、問題ないだろう」と思いましたが、形式上、上司に相談しました。
「は?仕事やろうもん?」
その時の上司の言葉が忘れられません。
その人は、持病を抱えながらも、その人ができる限りのことをしようとして、そう言ったのだと思います。決して楽をしようとか、そういうことじゃなかったと思います。
けれども、返ってきたのはそういう言葉でした。仕事だから、自分で相談しに来い。仕事だから、それくらいコントロールしろ。仕事だから……
ああ、そんなんだから――
これがきっと就労している障害者だったら擁護されたんでしょう。仕事の量を調整してもらったり、労働時間を考慮してもらえたのでしょう。
けれど、その人は過呼吸があるだけの健常者。障害者ではない。だから、個別での配慮はしてくれない。
ですが、これが現実です。本当にノーマライゼーションを謳うのであれば、彼らが受けられる支援は僕たちが受けられるはずだし、僕たちが負うべきものは彼らも負わなければならない。
けれども、障害者ばかり人権が意識され、それを支える僕たちの人権が意識が向いたことがあったか。
その人は辞めました。当然だと思います。一般の会社ならばともかく、仮にも福祉を提供する職場で、利用者には最大限配慮して、職員には配慮しないとか、意味が分からない。
僕の言葉は感情的で、正論を欠いているでしょう。ですが、これを違うというのなら、そもそもノーマライゼーションという言葉を撤回してほしい。そんなものを謳う資格はない。
厳しい話ですが、僕たちと彼らは対等ではない。
それを理由に差別することはありませんが、人権を最大限尊重しなければならないのは、健常者も障害者も一緒でしょう。
だから、本当のノーマライゼーションがあるとすれば、健常者と障害者の垣根を越えて、僕たち個人一人ひとりが幸せを享受するという権利を擁護することだと思います。
そもそも、自分を大事にできない人間が、他人を大事にできるわけがない。
自分が幸せでないのに、他人を幸せにできるはずがない。
福祉という言葉は、幸せという意味です。
僕たちがそうでないのに、どうして利用者を幸せにできようか。
このことを上司に言っても、どうせ「仕事やろうもん」って返ってくるんでしょうね。
健常者をひとくくりにまとめようとするその言葉が、健常者への差別だと、僕は思うのですが。
PR