研修の一環として、とある、お偉い議員さんの講演会に参加してきました。
テーマは障害者差別解消法について。
平成28年度4月から施行された法律で、正式には「障害を理由とする差別の解消に推進に関する法律」。
単刀直入に簡潔に言えば、障害者に対する差別は違法である、と法的に規定したもの。
それはそれは、ありがたい講演を一時間半に渡って拝聴させていただきました。
ただ、正直……着眼点がズレているなと感じました。僕個人の意見としてはね。
まず、障害を理由とする差別の解消とは言うものの、じゃあ、健常者の差別は全くのゼロなのか、ということ。
「障害を理由に就職できないケースがあり、それは差別であり違法だ」と事例としてあげられましたが、現実問題として健常者でも就職難です。それは果たして解消されているのでしょうか?
働ける健常者が、みな満足いのいく雇用を受けているのでしょうか?
次に、コストパフォーマンスの問題。
障害者のために合理的配慮を行う。それは必要なことだと思います。
ですが、どう言い繕ってもコストパフォーマンスが悪い。事例として、「飲食店でメニュー表に点字の記載しておらず入店を断るというのは、視覚障害者に対して合理的配慮が欠けているので法律違反である」という話をされていましたが、現実問題としてマイノリティを対象とした取り組みが、現代日本という資本主義国家においてどれだけの利潤となるのでしょう。
もちろん、「金にならないから切り捨てる」というわけではありません。そうじゃなくて、じゃあ、その財源はどこから捻出されるのか。その問題に対して、慈悲だとか人権尊重だとか、そういう感情論で企業が取り組みを行うのは逆に差別じゃないのか、ということ。
最後に、そもそも差別を生み出さない環境作りが最優先であること。
「法律で決められているから差別しちゃいけませんよ。違法です」とか僕からすれば思想統制だと思うのです。理解というのは学び、育み、共感するものであって、システムで無理強いさせることではない。
法律で決められているから差別しないのではなく、そもそも差別という意識を根絶すればいいわけで、そういう人権教育を徹底することが大前提ではないでしょうか。
結局のところ差別とは、命の価値に優劣をつけるということです。けれど、健常者は常に優劣をつけられる社会の中で生きているわけですよ。
ノーマライゼーションってそういうことじゃないでしょう?
障害者は差別されることなく、健常者となんら変わらない権利を保障されなければらない。おうよ。その通りだ。でも、じゃあ、逆に健常者も彼らと同等の権利を保障されなくてはならないと思う。
僕たちは体と心を壊して一生懸命働いている。健やかな老後があるとも限らない。年金がもらえるとも限らない。若くして死ぬかもしれない。やりたいことをやれずに、ただ働いて苦しみながら死ぬ。そんな人生は果たして人道的か?
僕らはなんのために生きてきた? 社会は、僕たちに何をしてくれた?
そんな思いを抱えながら、それでも義務だ法律だと言い聞かせて納税している健常者の血税が、福祉や医療の財源なのだ。
障害者の人権を本当に守るのならば、何よりも社会を支える僕たちが物質的にも精神的にも満たされていなければならない。余裕があれば、人間は誰かに優しくできる。いつくしむことができる。
この法律は、健常な国民にマザー・テレサになれと言っているようなもの。
誰しも聖人になれるわけじゃない。健常者が豊かであることが障害者差別根絶の第一歩なんだと思う。
じゃあ、まずしなきゃいけないのは、僕たちの生活を向上させる取り組みでしょう?
教育、労働時間、所得、税金……僕たちにだって改善すべき課題は山ほどあるんだぜ?
ネグレクトや性差別、少子化の問題も解消できていないだろう?
議員さんはこの法律について熱く語っておられましたが、僕はそういう「守ってあげなきゃいけない」みたいな発言自体、差別だと思う。道徳の問題だよ。
まあ、こういう政治家が目をそらしがちな問題に立ち向かう姿勢は評価しますがね。
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